書くことでしか。書くことでしか。
今ワールドシリーズを見ている。山本由伸先発の試合だ。昨日劇的なサヨナラホームランで勝利したドジャース。今日も連勝なるか?
大谷選手は相変わらず外野フライが多い。ても、そんなもんかもしれない。ホームランバッターだもの。フライを上げないと100%ホームランにならないのは間違いようのない事実だ。
山本は調子悪くはなさそうだが、相変わらずボール先行のピッチングになっている。すでに2つ目のフォアボールとなっている。慎重に慎重に入っていっているのだろう。立ち上がり、少し落ち着くまで、時間かかるかもしれないな。カーブは良いところに決まっている。ストレートがおさえがきかず高めに浮いてしまっているので、そこを低めに良いストレートがいくように修正できれば!
といっても、2階無失点だから、良いピッチングとしか言いようがないのだ。彼の中で、序盤ストライクを集めすぎて打たれた経験を確実に活かして、慎重に立ち上がりを入っているのだろう。
今日はあふれ出てくるのか?言葉が?いや、そんなことはないかもしれないな。
どうなる?どうなる?心理的描写。怒り続ける男。涙する老人。笑う子供たち。良いイメージを自分で持ってこようとする心理。私が困っていると、助けてくれる黒い目の老人。
彼女は一体何者なのか?老女?だれかを、代名詞で呼ぼうとすると、彼または、彼女、性別によってどちらかを選ばなければならない。繰り返しを恐れているのか?
黒い目の老人の性別を明かさないとするならば、
老人は一体何者なのか?という記述で事足りる。私は代名詞の関係性から、決めようとして、なんとなく老女として、彼女として決めたが、本来ならば、その記述自体、女性であると明かすタイミングはどのようであるべきか、というのは議論のあるところである。特に性別というものが重大な意味を持つストーリーの場合は、特に。とっさに私がイメージした老女とは母だった。だからこそ、彼女として、そこから、物語が続くはずだった。
私をいつも助けてくれる老女。それは、母以外に私の中では、あまり思いつかなかった。知らない誰かだとして、だれがなんの目的で?そして、その誰か、とは誰なのか?いつもの日常の中に、ひそむ救いの萌芽が、そこにはあるということだろう。
その老人(ここでは、結局老人とする、イメージとしては両親)は、私をいつも助けてくれる。今私は孤独に苦しんでいるとする。誰ともつながりがなく、社会の中で孤立している。その私が、だれかとつながりをもてるとしたら?図書館に行くと、ひとりの老人が話しかけてくる。男の老紳士だ。少し深みのあるお皿のような帽子をかぶって「お元気ですか?あなたは、少し調子が悪いようだけれども、何か私にできることはありますか?」と丁寧に聞いてくれる。私は思わず言う。
「私とお話してくれますか。私は1人なのです」老人は快く笑顔でうなずいた。「もちろんです。私にできることがあればなんでも言って下さい。とりわけ、あなたについて、とても繊細なことは置いておいて、くだらないことを話しましょう」私と老人は、他愛もない世間話をして、たまに笑い声をあげた。リラックスはしていなかったが、何か他人と話すという行為をひとつの教義として、受け入れてようだった。
私のあなた。あなたの私。自己と他者の境界。私の傷。あなたへのキス。哀しみの歩み。あなたへの思いやり。私の満ち足りた非道。あなたを導く園。