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モーニングページ 10月24日

 昨日の診察を振り返ってみる。相変わらず先生は、季節や日照時間について、とてもよくしゃべってくれる。正直、もういいよ!と思ってるけど、そんなこと言えないですよ。それと時間がたってからも、私の中でひっかかっているのは、両親の手伝いをするという先生の提案。提案というほどでもないが、どうですか~みたいな軽い感じでした。先生が言うには、フラッと近所に買い物を両親の代わりに行ってあげるなど、なんかそういうふうにしてみればいいんじゃないでしょうか?という。私は確かにまったく家事もしていないし、手伝いらしいこともしていない。これでは、確かに、いかがなものか?と思うのは、至極当然だと思う。いかがなものか?というより、家事手伝いをしたほうが、回復に良いとする本の文章をちらほらあるのだ。

 役割を得て、自分の居場所みたいなものが、家庭にできれば、それで万々歳。家庭という単位の集団に貢献しているという実感を得られれば、家族との関係性や、家庭での居場所がぐっと良くなるのだろう。私は、最近は家族内でも、そんなに今の境遇(状態、状況)を気にするのが少なくなってきた。ひきこもりに近い生活に慣れてきたのだろうか?

 少なくとも昨日も悪夢は見たのだが、いずれも以前の職場に関する悪夢であり、これを克服するのは、だいぶ時間が、かかりそうだ。時間とともにトラウマ、PTSD気味の心の傷はいやされていくのだろうか?疑問文、うん。いい感じに疑問文を使えるようになってきたのは、うれしいですね。

 そして、何かもうひとつひっかかりがあった。なんだっただろう。さっきまで覚えていたのだが、消えてしまった。何時からモーニングページを始めたか、書いておかないと忘れてしまう。今日は書き忘れたな。20分くらいからだっただろうか?それとも25分くらいだっただろうか?それとも、30分を回ってから書き始めただろうか?ちゃんと書いておかないと忘れてしまう。

 具体的な行動として、何かをやるというのは、今のところ考えていない。外に出るのが、だいぶ苦手になってきているのかもしれない。外に出るのが苦手な吸血鬼のように??

 さあ、どこまでいこうか。どこまで進もうか。私の中の深い部分を少しずつ表に出していこう。深層心理、私の中の深層心理。

あ!思い出した。統合失調症の本を昨日買って、読んでみたのだった。書く力、読む力は、以前に比べて格段に上がってきている。(ほかの能力はだいぶ落ちているのは間違いないが)。このペースで書く力を伸ばしつつ、生計をたてていけたらな、と思う。統合失調症日記という形で、日記を出版してもよいし、いろんな可能性が考えられる。

 そう、それで、話を戻すと、統合失調症の本を読んで、何かひっかかりを感じたのだった。

 なんだっただろう。その内容が、また思い出せない。日中の時間を過ごせるテレビ番組のようなものが、ネットにあったらいいな、と思う。ぼんやり見れて、楽しめる。プライムビデオは、食わず嫌いのようなもので、見ていないから、見ないだけかもしれないが、なんとなく、見る気持ちが、ほとんどわかない。12月でプライム会員も辞めることになるだろう。

 少し実学的な問題を。実学ってなんだ?ふっと湧いて出たが、自分自身何かわかってないようだ。実学の反対は哲学とでもいいのか?虚学?よくわからない。実数と虚数の関係のように?虚学は錬金術とか占星術とか?虚とまではいいきれないのかもしれない。どうなのだろう。そもそも、そんな言葉があったかも疑わしい。造語だ。またニルのつくった造語だ!と言われそうだな。わかる。とてもよくわかる。私は適当に言葉を作ってしまう。その傾向はあるよ。うん。26分に書き始めたと仮定して、30分たつには56分である。すなわち、あと9分まだある、という計算だ。

 私自身の彩を槙島に言いたいよ。槙島って誰?たぶん、サイコパスの悪者だ。なんか、気になっている。私自身もサイコパスだからか?問題は、私が、感情や人が感じるだろう感覚があまりなく、その感覚を模倣しようとしても、虚しさや、演技をすることができない 生きづらさ にある。私自身、親が亡くなれば悲しいと思うが、実際それを想像しても、あまり悲しくなることはない。自分の中で、「ああ、そうか」という感覚が大きい。ひとつプラスの点をあげるとすれば、こんな人間も世の中にはいるのだなあ、と。親からとても大事にされて、愛されているのに、その実、子供のほうは、親の愛情など感じてもおらず、ただ、ぬくぬくと暮らしているだけなのかもしれない。感情鈍麻によって、それが起こっているのか、どうかはわからない。統合失調症による人格変化なのか、それとも、元々あった人格に、ただ統合失調症が加わっただけかもしれない。どちらにせよ。今の私は、親に対する深い愛情もなければ、何かをしてあげようという気もちさえ、あまりない現状だ。

 あ!そういえば、母にテニスのレッスンはしてあげたいな、とは思う。肩がよくなって、少しずつでも進めたらいいな。母はまだまだテニスがうまくなりたいらしい。コーチとしていいアドバイスができれば、とてもうれしい。母だからでなく、コーチとして、他の人にも良いアドバイスができれば、それはそれで、うれしい。そんな気持ちがあったなんて、大きな発見だ。

 いや、とても小さな発見かもしれない。私が、何かをすることによって、喜びが増すなんて、人のために何かすることによって、喜びが増すなんて、私がそんな感情を抱くなんて、おどろくべき事態ではないでしょうか?

 愛のない私に愛する技術。エーリッヒ・フロムが言うように、愛するのは技術なのだとして、私は愛を必要としているのだろうか?愛することを?それとも、愛されることを?今客観的に見て、私は親にとても愛されていると感じているが、自分自身の実感として、ああ、愛されているなという場面はあまりない。不思議なものだ。

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