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可能性としての私

 可能性としての私。

 可能性としての始まり。

 私は今日ここに、ひとつの決意をもってブログを再度始めることとなった。

 その前から、いろいろな試みのひとつとして、自分自身をたんきゅうするために、飾り気なく出すために、私は日記という形式も用いる。小説、詩と同じように使う。変に表向きな感じがする。

 表向きとはどういうことか、私自身を高く見せようとしたり、ありのままの自分ではなく、見せる行為である。つまり、ありていにいえば、かっこつける、というやつだ。

 私は、かっこつけることを防ぐために、私が現在無職であり、なんの労働もしておらず、ほぼほぼ引きこもり状態であることを伝えておく。

 病気持ちのブロガーとして、私は統合失調症という病を持っている。だから、無職であるとか、だから、ひきこもっているというのは、因果関係的に強くはないが、ひとつの要因ではあるだろう。

 自分自身の言葉によれば、ひとつの結び目なのだ。

 今年の4月に病気が再発して以来、私は様々なことを考えて、さまざまな思いをもってやってきた。

 それが、過去の記事である。

 自分を否定することも多かった。

 今の自分を肯定するつもりはないけれども、否定するつもりもない。

 私は何をやってきたのですか?

 生きていることをやってきたのですか?

 なんだか、ヘンテコな文章だが、それも私である。私そのものである。

 自分を探究するとは、自分の中に内なるものと外なるものを別々の角度からとりいれたり、手放したりしながら、やっていくものだ。

 私は、今外向きになりつつも、うちにかえろうとしている。

 私は外を出歩きつつも、やはり、うちなる精神にかえってきた。

 なんでしょう。大した人間でないのに。

 それはわかっています。とてもわかっています。

 ただ、大したものでないものが、大したものになるかもしれない(あくまで可能性として)物語を堪能あれ、と私は思う。

 あなたの文章なんて、つまらない、もっとこうしたほうが良い、そうだろう。あなたの求めているものは、もっと高い。もっと別のものなのだろう。そこに、私は、なく、そこに、あなたもいない。

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